10年間
私の部屋にはノートが沢山ある。
近い道はそれぞれ違うけれど基本的な趣旨は同じだ、アウトプットアウトプット。アウトプットする人間でいたいという焦燥の象徴。ノートが埋まりきったことは一度もない。
手近なノートを開いてみる。
多くのノートに散見されるのは字の練習と称した書き殴りだ。字はたいして上手くない。それは何かの文章のようになっている。
「それだけがこの家における規範だった」だの
「然しながら目前にあった其れは永久に失われた」だの
「わかったのは君が去るということだけだった」だの
特に捻りのない思わせぶりな一文だけが、続くこともなく放置されたままだ。
どれもこれも書いた覚えがない。
けれど書いたときの状況なら容易に推測できる。
ペンを持ち、書きたい形の一文字めを書く。たとえば「そ」はかっこいい。「然」なんかも払いと止めがかっこいい。
一文字めを書いたら手が勝手に続きそうな文字を書く。それ、そういえば、そこには。そしてその後に続きそうな言葉も書き足される。
そういった風に出来上がっていく。
そこに私の意識は介在していないように思うのだ。
それほどノンストップに一文だけが書かれて手は止まる。
それなのに私は何かを産めたような気になり少し安心してノートを閉じる。
と、こういった自動手記(としか言いようがない)は手書きもしくは物理キーボードを利用したときのみ発動する。そろそろタップに対応してほしい。頭で考えていない一文でも、それをきっかけに何か書き続けられるかもしれないじゃない。
あの頃はただ呼吸をしているだけで常に言葉が降るようだった、と懐かしく思う。
目に見えるほどの、耳に聞こえるほどの存在感で文章が降り注いでいた。